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ソウルレスな日記。
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人生は楽しいものだというやつは、人生というものがわかっちゃいない。
だが死こそが生から解放しうる至上の極楽だとか抜かすやつは疑ってみるべきだ。
まあそんな極端なこといってる人がいるかどうかはしらないけどよ。

とある本を読んで、人が生まれながらに背負う十字架を考えてみた。
基本的に人は一人では生きられないというのは、何度か言ったことがあるんじゃないかと思う。
じゃあ二人以上で生きるとは一体どういうことなのか。生きるとは一体何なのか。

極限状態にあろうと、そうでなかろうと人は人を食べる。直接的に、あるいは間接的に。
といったところで何を読んだかはもはやわかるであろうけれども。

人は人を食わずにはいられない。ある詩人も詠っていたが、そうやって人間は生きる。
他の人間を直接食って生きることもあるだろう。
或いはほかの人間が心血注いだものを食らって生きていくこともある。
多かれ少なかれ人は人の上に立っていて、その人の上にも人が立つ。
支えられて生きると言えば聞こえはいいかもしれないが、実際のところはどうなんだろうか。

例えば日々口にするものには必ずといっていいほど生産者がいるけれど、その人たちは何を思う?
個人としては感謝の念が耐えないが、思考をめぐらせてみるとこうも考えることができる。
消費者側は彼らが心血注いで生み出したものを食らう。
一方で生産者側は、消費者側が心血注いで生み出した金を食らう。
お互いに食って、食われてこの社会は成立しているのではないのだろうか。

もちろん、全部が全部そうとはいえない。家族間ならば無償提供ということもある。
しかし、母親の腹の中にいるときでさえ、人間は母を食らっているとも考えられる。
そうやって誰かを食って大きくなり、そしていつかは自分も食われていくのが人間なのではないか。

しかし人間は綺麗でいようとする。お前人食ってるだろ、なんていわれたら全否定するだろう?
ここで問題が生じてしまう。現実との乖離が生まれる。
すると人間の本質に目を背け、自分ひとりででかくなった顔をするか、自分の行いを美化する。
血なまぐさい人間の真の姿に抗い、人間以上の崇高な何かに近づきたがる。
だが、人は人でしかない。いくらあがいたところで人間以上の何者かにはなれない。
その姿を受け容れるしか残されていないのだ。

そうやって人が人として生きていくことには、多くの苦難が伴い、我慢を強いられる。
洞窟の中で我慢していたのは、諸々に加えてこれがあったのだろう。 
今の俺には、何故、何を我慢しなければならないのかはわからない。
しかし船長が時を経てたどり着いた答えを自分にみたとき、俺は変わってしまう。
人間でも、神でもない、気味の悪い何かに。

過酷に生きることは過酷に死ぬことより力が要るぞ、と蒼天航路の曹操は言った。
まあ多分、あの場面でこのセリフに持たせた意味合いは違ってくるのだろうけれど。
だがこれを切り出して考えたときに、その核心まで近づいていってるような感覚はある。
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